小学校の通知表には、「授業中におしゃべりが多く落ち着きがない」と書かれる子だった。
自分では「話すこと」に抵抗がないタイプだと思っていた。
しかし、高校、大学と進むうちに、ただベラベラ話ができるだけでは「会話に長けている」と言わないことを知った。
すると、自分は話が上手くないというコンプレックスが生まれた。
が、それで困ることは、例えば誤解されたりして釈明に追われることはあっても、釈明をすれば解説できたりしたので、決定的なマイナスではないと感じるようになった。
30歳を過ぎたぐらいのころかな。
プレゼンテーションなんかも増えてきて、決して立て板に水のような説明ができなくても、企画内容やその場での提案が良ければ、仕事に結びついたりしたからだ。
それから、流ちょうに話をすることをあまり意識しないようになった。
足りなければ追加すればいいし、理解されないなら縁がなかったと諦めればいいし。
確かに、流ちょうに話ができることが、その話の内容をきちんと理解して、相手に伝えられるように論理立てられていて、思いやっていることなどとイコールな部分はあるかもしれない。
でも、相手はそんな周辺を求めていないことが多いんじゃないだろうか。
だったら、「自分の言葉で」という意味での、たどたどしくても回りくどくてもいいから、しゃべればいいんだ、と。
この記事にある、流ちょうな話だと相手の関心度が低下してしまう、というのは、目から鱗が落ちると思った人も多いかも。
もちろん、いい声と流ちょうなしゃべりは強力なアドバンテージであることは事実。
それだけに、内容が伴わないとギャップも大きいということなんだろうね。
つまり、下手なしゃべりがいいんじゃなくて、こちらもやっぱり内容が伴わないとダメよ、ということなんだけど。